私と同じときに、喬木村の“地域おこし協力隊”として、村に残る伝統工芸品である“阿島傘(あじまがさ)”の技術を学ぶ方がいらっしゃいました。ここからの文章はその方にご推こう頂きました。

◆導入
 竹と和紙という素朴な材料から作られる、繊細で美しい和傘――――
長野県喬木村では、江戸時代から続く伝統の「阿島傘(あじまがさ)」が現在も受け継がれています。

◆阿島傘の起源
 阿島傘の起源は江戸時代まで遡ります。18世紀、旗本である知久氏が阿島(現在の喬木村阿島区)を中心に近隣を治めていた。その4代頼久の頃に浪合の関所(現在の阿智村)を一人の旅人が訪れました。旅人が腹痛で動けずに苦しんでいたところ、気の毒に思った関所の下役人が介抱し、旅人は無事回復しました。この旅人は実は傘職人であり、お礼にと傘作りの技術を下役人に伝えたのです。その後、任を終えて阿島に帰った下役人が下級武士へと傘作りを広めたのが阿島傘の起源と伝えられます。

◆阿島傘の隆盛と衰退
 和傘の材料は竹、和紙、渋柿などで、これらは喬木村および近隣で揃えることができました。そのため初めは下級武士が中心だった作り手も、次第に村人たちへと拡大し、阿島傘作りが盛んに行われました。そして明治時代末には400軒もの傘屋が軒を連ね、年間30万本もの傘が生産され各地へ出荷されました。
 和傘は工程ごとに分業体制が取られ、竹から傘骨を作る職人や、木工部品である「ろくろ」を作る職人、紙を張る職人などに分かれていました。子供たちも竹骨を並べる「骨揃し」で小遣いを稼ぎ、田んぼのあぜ道や石垣の隙間を使って数百本の傘が干され、全国でも有数の和傘生産地となっていたのです。
 そんな阿島傘も昭和に入ると洋傘の台頭に押され、次第に衰退していきました。昭和30年代には多くの傘屋が廃業し、現在では菅沼商店1軒のみが残るのみとなりました。しかしながら阿島傘の魅力を見直し、伝統継承していくことを目指して「阿島傘の会」が発足し、地元の小学生の傘張り体験などの活動が行われています。

◆阿島傘作りの工程
 和傘作りの工程は多く、よく「骨の数ほど工程がある」と言われます。工程ごとに職人が分かれるのが一般的で、現在では村に残るのは傘を張る職人のみとなっております。その中の工程も様々ありますが、その一部をご紹介します。

 〇骨つなぎ :針と糸を使って傘の骨を柄につなぎ、傘の形にします。通常、番傘では親骨48本、小骨48本です。
 〇間割(けんわり) :骨と骨の間を均等に開きます。ここで骨間にばらつきがあると美しい傘になりません。
 〇軒づけ(のきづけ) :骨の先端である「軒(のき)」に紙を張ります。軒に通した糸を挟みこむように張っていきます。
 〇中置づけ(なかおきづけ) :親骨と小骨の接合部である「中置(なかおき)」に紙を張ります。傘の開閉時の補強のために張ります。
 〇大張り(おおばり) :傘のメインとなる紙を張ります。糊には昔はわらび粉を使いましたが、現在ではタピオカ粉を使います。
 〇天井張り(てんじょうばり) :傘の上部に丸く紙を張ります。最も難しい工程と言われ傘の出来を左右します。
 〇白仕半(しろしはん) :傘を折りたたみ、形を整えて輪で締めます。
 〇赤塗(あかぬり) :骨上に「弁柄(べんがら)」という塗料を塗ります。
 〇油引き(あぶらひき) :雨を弾くように紙に油を塗り、天日で2日ほど乾かします。
 〇油仕半(あぶらじはん) :傘を閉じて形を整え、紐で縛ります。さらに傘の上部を油紙で包んで仕上げます。

 以上のように傘作りは多くの工程があり、一つ一つ手作業で作り上げています。
下伊那に息づく伝統の手仕事――――阿島傘。ぜひ一度手に取って、その伝統を感じてみてください。